活字をこえて

製本と修繕を習っています。本に関することや考えたことの記録。

20181112【製本修行】教材探し

※時系列は前後しています※

仕事を定時で切り上げ、久しぶりに母校へ。修繕の練習になるような廃棄本があるとしても、アテはそんなにない。古本屋にはだいたい売れる状態のものしか置いてなく、昨日訪ねた古本屋で聞いたところによると、だいたい自分で修理してしまうそうだ。しかし母校は何ヶ月も前に大々的な引っ越しをしたばかりで、タイミングが遅すぎたかもしれないと半ばあきらめの気持ちで地下鉄に乗る。はたして見知った恩師はいらっしゃるだろうか、卒業して7年、市民に開放している大学とはいえ、顔を忘れられていたら自己紹介から始めなければいけない。
もんもんとしつつ地下鉄を降り、マントの紳士とすれ違う。絶対あの人どこかの学科の教授だ、見覚えはないけど絶対そうだ。と思わず笑みがこぼれる。そして10歩も歩かないうちに、今度は地下道を向こうから歩いてくる女性に目が吸い寄せられた。「林先生!」先生は驚いて私を見留め、ぱあっと笑顔で両手を広げた。抱擁こそしなかったものの、先生は私のことがわかったようだった。「学科の名称が変わった最初の年の卒業生です」念のためにそんなことを言わなくても、先生は本当に覚えてくれていたらしい。立ち話に恐縮しつつも近況を報告し、なぜ久しぶりにここを通りかかったのか聞かれた。機を得て事情を話すと、先生の、一見冗長な語り(を懐かしく楽しみながら)の中で「ダンボールに入れてどこかへやったまま、ホラみんな年寄りになってどうにもできないでしょ。最近新しい若い先生が入って馬力があるから、片付けたりしてくれている動きがある」というようなことを話してくれた。我が意を得たり!さすが、そういうおおらかな(?)ところが我が母校らしい。ただ、勝手に廃棄(譲渡)していいものかどうかわからないから、今週の教員会議にかけてくれるとのこと。藁にもすがる思いでお願いしておいた。聞けばこの時間に大学へ行っても、もう居残っている教授はいないらしい。恩師に挨拶したかったが、講義が終わるとお帰りになったそうだ。林先生に道中で出会うというのは奇跡だったにちがいなく、ちょっとでもモタモタしていたら頼る人の誰もいない不慣れな新しい校舎で途方に暮れていたことだろう。巡り合わせに感謝しながら手を振って分かれ、それでも図書館くらいは見ていこうかと思ったが、考え直して元来た地下鉄に飛び乗った。このまま、昨日は日曜定休で行けなかった古本屋に行こうと思ったのだ。専用のウェブサイトがなく、唯一店舗情報が記載されている商店街のウェブサイトを見ると営業時間内に滑り込めそうだ。地下鉄を乗り継いで尚学堂さんへ。
果たして尚学堂は閉まっていた(ウェブサイトは誤った情報を掲載していたようだ)。ショックを受けつつ、目に入ったインターホンを悪あがきで押してみると、なんと開けていただけることになった!感謝しながらも手短にいこうと先に事情を話す。お店の方もいろいろと探してくれたが、説明が通じず和本を持ってこられた。そこで初めて、洋本の糸綴じじゃないとだめだということに気付いた。つまり本を開いてみなければわからない。背表紙も見ず内容も読まずに本を選ぶのは生まれて初めてだったため、すんでのところで情事本を掴んでレジに行くところだった、直前で慌てた。興味深いにはちがいないが、教材にするには不適切だ。そうして手頃な3冊を入手した。『乞食王子』(マーク・トウェイン/福知狂介訳)、『ガリバー十六年七か月の旅』(ジョナサン・スウィフト/筒井敬介訳)、『散文家の日記』(林芙美子)。なぜか100円割り引いてもらえた。次はゆっくり買い物にくることを誓って辞する。
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お店の人に聞いてわかったことがある。本の大幅な修繕は改良本になって“しまい”、価値が下がるとのこと。コレクターによっては、手の加えられていないものでなければ意味がないそうだ。本の修繕のニーズがあるとすれば、古本屋ではなく、それでも今後のことを考えて修繕する必要を感じたコレクター側のほうで、たまに古本屋に修繕を相談してくる人があるが、困ってしまうとのことだった。古本屋さん自身は、よほどひどい状態のものでなければ自分で直せるし、むしろ「改良」に当たらないよう自分で直せる範囲でしか直さない。職人である師匠は「こわれるとわかっているような無線綴じ本は作らない、100年保つつもりで作るし、修繕するときもなるだけ」と言っていたから、考え方の違いを如実に感じた次第だった。ひとくちに修繕とは言っても、修復(現状を保たせる、あるいは原型に近づける)なのか改良・リメイクになるのかは常に念頭に置かねばならないのだろう。